~ take の森田療法コラム~

『世間一般に語られる(強迫性障害等の)治癒した例としての紹介には注意が必要』

 

 強迫性障害等の症状について医療関係者から発信される、いわゆる治癒した人の例として紹介されている情報が本やインターネット上で散見されますが、これには大いに注意が必要である、と個人的には感じています。

 

 と言いますのも、例えば私が直接知っている、かなりとらわれのきつい強迫性障害に苦しんでおられる方の例をお話しますと、その方は10年以上も前に、数日間の集中的な認知行動療法(曝露妨害反応法)を受けて、それが奏功してそのまま改善した人の例として、とある小冊子に紹介されていたりするのですが、(私はその人の現在の実態を知っているので言えるのですが)、残念なことではありますが、実は全く改善しておられません。

 医師の指導の下、集団で数日間、曝露反応妨害法を実践したことは確かですが、その後自宅に帰り、何かが特に変わったということは全く聞いておりませんし、見てとれません。もちろん本人も最初のうちは何かが変わった・何かが変わるだろう、と思っておられたようですが、実際のところを率直に言えば、そういうことは無かったようです。しかも別の人々のケースでも、同じような話を私は幾つも知っております。

 

 こうしたケースは一つの療法の世界に限った話ではなく、精神医学・心理療法の世界一般に多く見られることなのかもしれません……。

 

 

※ちなみに、曝露妨害反応法の内容ですが、複数の参加者から直接私が聞いたところによると、医師の指導の下、例えば、洋式トイレの便座シートよりも下のところ、水の溜まっているところの壁面に指を押しつけ、その指をそのまま口に持っていき、なめる。他には、これはテレビ放送もされていたことですが、口に入れた飴玉をなめた後、掌にだして、隣りの人に渡す。これを参加者全員で一周行う、といった内容でした……。

(森田療法以外の療法についての言及なので、改めて慎重に、記憶を正確に辿りますと、水の溜まっている便器内の壁に指をつけて、「その指をなめる」という行為をやっていたのだけれど、「それは流石に……」ということになり、「その指を頬につける」に変更された、という話を伺ったのでした。)

 

 これらの行為は「まるで清潔・衛生・きれい好きは悪だ」との主張のように私には思われ、森田療法ではそのような事は一切行わないこともあって、奇異に感じられます……。

 森田療法では、きれい好きな人がきれい好きなままに、心配性の人は心配性のままに、他人が怖い人は他人が怖いままに、雑念に追われる人は雑念に追われるままに、治る(二項対立から解放される)ことが出来ます。

 

※注意:この記事内で使っている「治癒」とは、巷間に理解されている治癒という意味で使ってあります。

( 2024年 3月 13日 記)

 

 

 

 

 

 

GWの2泊3日のサークル旅行(後編)

 

 滋賀県の米原駅から敦賀駅に3人で移動した後、石川県在住のCさんと敦賀駅前で待ち合わせしました。Cさんはまだ20代の人で、オンライン不問の会によく参加される方の中では一番若いです。Cさんには車で敦賀まで来てもらいました。

 4人集結してすぐに敦賀駅前の商店街の中に見つけた食堂兼居酒屋に入って食べた海鮮丼は、この旅行中に食べた海鮮丼・刺身定食の中で一番良かったです。

 敦賀港にある赤レンガ倉庫のジオラマ館や、敦賀の綺麗な砂浜、三方五湖に行きました。その写真を引き続き以下に掲載します。

 

 三方五湖の眺望はいにしえより有名で、万葉集に「若狭なる三方の海の浜清みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(作者不明)という歌が残されているそうです。

 

 三方五湖とは三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の5つの湖のことで、三方湖は淡水湖、日向湖は海水湖、残り三つの湖は汽水湖です。

 

 

■■『あほ馬鹿分布図』■■

 

 およそ30年近く昔の話になりますが、今現在も健在の『探偵ナイトスクープ!』という関西発の人気バラエティー番組で、「関東では馬鹿と言うが、関西では馬鹿よりもあほと言う。これの境界線を調べて欲しい」という依頼がありました。

 この依頼に基づいて町中のいろんな人に話しかけていく訳ですが、滋賀県はもちろん近畿地方であり、関西弁を話す県(特に県南部は京都言葉「~しはる」も使われたりしている)です。滋賀県の米原市辺りでは当然関西弁なのですが、JR東海道本線の路線に沿って、岐阜市まで行くともう言葉が完全に大きく違います。いや、岐阜市と言わず、大垣市まで行くともう違います。電車の乗換案内アプリで調べたところ、米原駅から大垣駅まではたったの約36kmでした。

 そう言えば、電車の中で人々の話し言葉に耳を傾けていると、米原に近づくに従って、関西弁が聞こえてきた、という体験を私は実際にしたことがあります。(^_^;)

 

 ちなみに面白いことに、その番組内での情報では、名古屋を中心とする中京圏ではあほでも馬鹿でもなく「たわけ」という言葉が存在するようで、しかもかなり一般的な表現である、とのことでした。

  番組内での、その「あほ」と「たわけ」との境界線は、ちょうど関ケ原あたりであるとのことだったと記憶していますが、これは大垣の人は名古屋言葉?を話すという事実と確かに符合します。ちょうど関ヶ原のあたりに東西の言葉の境界線があったというのはなかなか面白い話です。

 不問の会のオンライン会合によく参加されていて、この福井旅行でもご同行したAさんは西濃地方(岐阜県大垣市あたり)にお住いの方なのですが、Aさんの話し言葉・イントネーションには、関西弁の気配は微塵も感じられません。

 

 JR名古屋駅からJR岐阜駅まで最短で20分。当たり前ですが、やはり同じ文化圏・経済圏に住む人同士は、方言も一緒であるということだろうと思います。納得のいく話です。

 ただし、これに合致しない例もあります。

 

■三重県の謎

 三重県は、東部地域は特に名古屋との人・物の行き来が盛んでありましょうが、Aさんから「名古屋駅から近鉄に乗って桑名に行くと、関西弁を話していて驚いた」という話も聞きました。三重県は、隣県の奈良県・和歌山県との交易・人的交流がさほど盛んには見えないのですが、「関西弁の亜種」のような方言を三重県の方が話されているのは聞いたことがあります。

 関西圏との結びつきがそれほど強いとは思われない三重県の人々が、名古屋弁の影響をあまり受けずに「ほぼ関西弁」を話されている、というのは面白い事実だと思います。

※そう言えば、西野カナという女性歌手がいますが、彼女は三重県松坂市出身の方で、テレビ等で堂々と伊勢弁(関西弁の一種)を話していました。

 三重県は地方区分けでは……、

(以降、まだ続きます)

関西人にはあほは言っても良いが、馬鹿と言ってはダメという話もあります。

「~しとうけど」

 

 

 

『症状の軽い人ならば森田療法で治る……!?』

 

 

 森田療法のことをあまり/ほとんど知らない方で、たまにこういう趣旨の発言をされる方がおられます。症状が軽いから、症状へのとらわれがあってもきっと行動していけるのだろうと。

 私は大阪・京都で毎月開催されている、強迫性障害の当事者及びその家族のための自助グループ(森田療法とは一切関係なく、強迫性障害に苦しむ当事者・またはそのご家族のための雑談・座談会のサークル)の会合に時々参加しております。

(※コロナ禍前はほぼ毎月参加しておりました。)

 

 その会を通じ私はこれまでにいろんな当事者の方はもちろん、多くのご家族の方に出会い、さまざまなお話を聴いてきました。本当に症状から解放された人生を歩みたいなら(=本治りしたいなら)、不問の森田療法に出会い、そして実践する毎日を送るしかない、とは私は分かりきっておりますものの、森田療法を眉唾療法・トンデモ療法だと思い込んでまともに話を聞かない人や、話は取り敢えず聞いてもらえるものの、森田療法はやはりハードルが高いと言う人、或いはとても可哀想な話ですが、本人さんが症状への強いとらわれの毎日を送っていて、外出はほとんど出来ないので、親御さんだけが参加しているケースなど、森田療法が苦しむ人のために真価を発揮して人を救うという状況に展開していく――という見通しはなかなか立たないというのが実際のところです。

 

 認知行動療法・曝露妨害反応法に傾倒している人もその自助グループには少しいらっしゃって、「症状の軽い人なら森田療法でも治るかもしれないが……」と話されていたことがあるのですが、私の実感としましては、これは全く逆だなと感じております。

 つまり、症状の軽い人なら森田療法ではなくても、それなり/何とか生活していけることもあるかもしれないが、とらわれが中程度以上の人であれば、「ごまかしが一切きかない」ので、自分を騙し騙しやっていくのが到底困難であり、不問の森田療法に出会い実践していく他、救われる道はないだろうと実感しております。

(2023年 12月 3日 記)

 

 

 

 

 

『写経のすすめ』

 

 

 現在私は計5人の方について定期的なアドバイス活動を受け持っております。

 その中で一番新しく今年に入り受け持つようになった方は、唯一女性の方で全般性不安障害に苦しまれている方です。

 

 その方に「森田療法は症状を治さない療法なんです」という趣旨のことは何度もお話はしてきたのですが、LINEで時々送ってこられるメッセージの中に、どうしても「病気を治す」という趣旨の内容が抜けきらないため、オンライン通話の時に、一度徹底的にそのことを説明させて頂きました。

 

――森田療法が守備範囲・対象とする不安神経症、強迫神経症=強迫性障害(確認恐怖症・不潔恐怖症・強迫観念・強迫性緩慢等すべての症状を含む)、対人恐怖症、抑うつ神経症、パニック障害、ヒステリー球(咽喉頭異常感症)、唾恐怖症、赤面恐怖症、あがり症、書痙、茶痙、SAD(社交不安障害)などなどの各種神経症はそもそも病気ではありません。だから、客観的な病気や怪我と違って、そもそもどこにも治すべき所がないんです。それどころか、その症状を治そうという熱心な努力が、皮肉なことに逆に自縄自縛の状態に陥らせているんです……。

 

(※気分・心の落ち込みを問題視し、それを克服しよう、克服したい、なのに頑張っているのに克服出来ない、という強い葛藤のあるものは抑うつ神経症であり、実は本物のうつ病とは全く別のものなんです。)

 

――これは医者ではない僕が独断で言っているのではなく、宇佐先生がはっきりと何度も言明されていることなんです。だから、「これは本人がいくらしんどくても病気ではないのならば、三聖病院で診察や入院の際に健康保険が適用されているのはおかしい」と役人にもし指摘されたら返答に窮してしまう――。ということも宇佐先生は講話で何度か言われていましたよ。

 

――体の病気とは違って心の内(精神内界)のことだから全部そうだ(治さなくていい・治せない)と言っている訳ではないです。例えば心のことであっても、統合失調症や本当の躁鬱病は客観的障害であるので、(本来はちゃんと治せるならば)治せた方が良いわけです、もちろん。

 

――こんなにしんどいことが病気でないのなら、一体何なんでしょう?

 

――完全なる一人相撲です。倒す必要のない、そして倒そうといくら頑張っても絶対に倒せない「自分」を相手取ってしまったが為に、病気にも負けない、いや、この上ないくらいの苦悩が生じてしまっているんです。

 

この方に私は最近、写経をお勧めさせて頂きました。

 

――1日30分で良いので、毎日やるようにしてみて下さい。最近では写経専用のノートも売っています。なぞってみて下さい。内容は何も分からなくて良いので。

 

それを受けて実際に購入して下さったようで、こう話されました。

 

――少しやってみたんですが、つまんないです。飽きます。(大意)

 

――そうですか。実はそこに凄く価値があるんですよ。心に関係なく、ただ書くだけ。やる気が出なかろうが、面白くなかろうが、心に関係なく目の前の必要な作業として、写経する。そこが重要なんですよ。ですから、これがスマホの面白いゲームとかだったら、実は作業にならないんです。心の安息のために、となりがちなので。

 

 反発されるだろうと思いながら言いましたが、意に反して感得するところが大いにあったようで、「そういうことでしたか。やってみます」と返事して頂けました。

 

 この記事を書いていて、以前、森田療法の専門医の先生が作業としてパチンコさせていたということがあったそうで、この件について宇佐先生が講話内で、「何かしていたらいいとか、そういうもんではない」と話されていたことを思い出しました。

 

 本当は不問の会は、会合日には皆で一緒に作業をするサークルにしていきたいのですが、会の皆様の居住地が日本全国に散らばっている為、未だ実現できておりません……。

※サークル旅行では確認強迫の方に、帰り支度や後かたづけを森田の作業として次々にこなして頂きましたが。(^_^)

(2023年 6月 17日 記)

 

 

 

 

 

 

GWの2泊3日のサークル旅行(前編)

 

 

 今年のゴールデンウィーク期間中(5月5日〜5月7日)に、不問の会の有志4人(私を含む)で、福井県の三方五湖および敦賀市を旅行してきました。その時の写真を掲載しながら、いろいろと書き記して参ります。

 

 旅館を引き上げる際の確認強迫のBさんの整理・準備の仕方などもしっかり観察してきました。そのお話もまたのちほど。(^_^)

 

 今回のサークル旅行の参加者は4人で、岐阜県在住のAさん、広島県出身で横浜市在住のBさん、石川県在住のCさん、滋賀県在住の私の4人です。

 広島県出身のBさんは広島帰省後に、そのままこのサークル旅行に参加されるため、AさんとBさんと私の3人は、滋賀県の米原駅の構内で待ち合わせ致しました。

 JR米原駅は新幹線の停車駅でもあり、北陸本線(旧名称)の始発駅・終着駅である他にも、東海道本線(岐阜・名古屋方面)と(京都・大阪方面)の連結駅であり、また、ローカル私鉄・近江鉄道の駅も隣接しています。

 

 岐阜県の大垣駅と岐阜駅の間の駅が最寄り駅であるAさん、そしてJR琵琶湖線(東海道本線)の駅が最寄り駅である私、新幹線で広島から京都まで新幹線のぞみで移動し、こだまに乗り換えて米原駅まで来たBさんの絶好の待ち合わせスポットが米原駅でした。

 

 ゴールデンウィーク中であり米原駅の利用者数はかなり多かったですが、無事に待ち合わせに成功し、3人で特急しらさぎに乗車しました。オンライン不問の会の会合で、画面越しには何度も顔を合わせているAさんとBさんですが、今回の旅行が初対面です。

 

 特急を使うと、米原ー敦賀間は、実は30分かかりません。

 短時間、車窓から臨める琵琶湖を眺めながら、3人で敦賀駅まで移動しました。

(続く)

 (2023年 5月25日 記)

 

 

 

 

 

 

 

 

『理論と実践は車の両輪、ではない』

 

 

 最近、曹洞宗のまさに正師と呼ぶべき老師様とのありがたいご縁を頂きました。

 禅にしても或いは浄土真宗にしてもそうなんですが、その叡智をちゃんと正確に受け継いで(不伝の妙道)、真正の指導・伝道をして下さる方が完全に絶滅してしまった――、と書いても過言ではないくらい、そのような方が殆どいなくなっている今日に於いて、これはまず滅多にない奇跡的な幸運でありまして、私はこのような邂逅に恵まれたことに本当に感謝しております。

(※事実、永平寺のお師家さんまで務められたことのある方が、お部屋の掃除は心の掃除である、という旨の発言を平気でされていたりします。)

 

 このご縁を頂いたご老師も「何を今さら」とばかりに、やはり同じ趣旨のことを当然のこととして仰います。言うまでもなく、坐禅中に仏教の知識・曹洞宗の知識を持ち出していたら/考えていたら/自分を確かめていたら、しっかり坐っていることにはならないです。

 

『只管打坐――』 ただ坐る、ひたすら坐る、理由もなく坐る、意味もなく坐る、目的もなく坐る、分からないまま坐る――。

 

※アドバイス活動は現在、ありがたいことに相談者様が不問の森田生活を実行出来ている人が結構増えてきていまして各人3〜4週間に一度のペース、オンライン不問の会の会合は3〜4ヶ月に一度のペースで行っております。

( 2023年 1月 6日 記 )

 

 

――以下追記です。

 

『理論と実践は車の両輪、ではない』

 

「森田療法における理論と実践は車の両輪である」という、よく使われる表現がありますよね。

 

実は私も長い間、全く同じように考えていました……。

しかしながら、これは断じて間違っている、と私も体験を通じてよく分かりました。宇佐先生もそうではない、との趣旨のことはいつも仰っています。

 

私は30代の頃、毎日の生活(森田の実行)において、頭の中に森田理論が残っていると、そのこと自体が治ることの明確な邪魔になってしまうことを、この身を通じて十二分に体験してきました。

 

実際の森田療法の実践/実行/作業/生活において、森田理論の出る幕/森田理論を持ち出す/それについて考える幕は本当に無いんです。

( 2024年 2月 2日 記) 

  

 

 

 

 

 

 

『素直に実行して頂ける人が増えてきていまして、本当に凄いな•素晴らしいなと感じております』

 

 

 2022年6月現在、私が定期のアドバイス活動(2週間に1度•日曜日。1回あたり短ければ15分~20分程度。平均30分。)を担わせて頂いている方が合計で6名いらっしゃいます――。

 

※不問の会のLINEチャットには、現在19名が参加されています。

※アドバイス活動の開催曜日は、水曜日から日曜日に変更しております。

 

毎週日曜日に3人の方に続けざまにアドバイス活動をさせて頂くことは、想像したよりも大変なことだったのですが、(^^;;、感謝もして下さっていたり、なかなか大きな効果が上がって実際に皆様のお役にも立てているようで、大変なようでもやはりこの活動は始めて良かったなと感じております。

 

そして、今では6名全員の方に、不問の森田療法を実行して頂けるようになってきております。中には、もうこのアドバイス活動から卒業されてもいい方も出てきていらっしゃいます。

 

さらっと書いてしまっていますが、これは快挙と言ってもいいほどに大変凄いことでして、私はこの方々に敬服しております。以前、メッセージを頂いた方から、不問の森田療法•宇佐療法は、そもそもとても無理なことを要求しているのでは? との感想をこぼされたことがありました。実は私はこういう感想を持たれる方がいらっしゃるのも無理もないことだと承知しております。

 

※ 本当は無理なことではないのですが、「考えた自分・セルフイメージ(自己像)」を手放さないままに、自分との対話なり格闘なりを続けながら、不問の森田療法を実行しようとしますと、確かに非常に困難なことを要求されているように感じられるのも無理もないことだと感じております……。なので、アドバイス活動を定期的に受けておられる方々の中に、言われたことに素直に従ってくれるようになるまでに時間がかかってしまう人がいるのもある意味当然のことだろう、とも感じています。

 

今まで習い覚えた森田療法とは全然違う森田療法と出会い、それを実行していこうというのですから、この点に於いても大変なことです。

 

※ 宇佐先生の不問の森田療法が一般的に知られている森田療法と違っていたとしても、結局は同じ森田療法なんだから、その違いは枝葉の部分で違うのだろうと思われている方も多いかも知れませんが、実際にはもっと大元の太い幹のところで、まさに根本的に異なっています――。

 

同じ森田療法だしあまり違わない筈だから、時と場合によっては必要に応じて、普通の森田療法に不問を「トッピング」してもよい、という風に考えておられる専門家の先生がいらっしゃいましたら、その先生方に対しては森田療法の本当のところ・真価をまだ分かられていない、という直言も時には必要なのかもしれません――。

 

 

不問の会のアドバイス活動は、「説得」或いは「森田療法の理解を深めてもらうため」や、「森田療法を解説するため」のものではございません。直下の行動•作業をして頂けるように導く為•促す為、及びそれが出来ているかどうかの点検をする為の活動です。

(※場合により、説明させて頂いている時もございますが、それも不問の実行に繋げるためです)

 

 

◼️『馬を水辺に連れて行くことは出来ても、水を飲ませることは出来ない』

 

何度か耳にしたことがありますこの諺はイギリスの諺だそうですが、私はこのアドバイス活動を、「伴走行為」だと捉えています。この諺の意味を引用して言うなら、ご相談者さんの代わりに走ってあげることは出来ませんが、伴走することなら出来る――。私はそのように感じております。

 

そして伴走者がいれば、多くの方が不問の森田療法を実行•体得しやすくなっている、という確かな手応えをこのアドバイス活動を通じて私は感じております。ですから大変なようでも、これからも続けていきたいと思っております。

 

 

※今年に入り、個人的なことでいろいろと忙しくしております為、このコラムの更新頻度が減ってきております。このコラムを読んで下さっている方に深謝致しますとともに、しばらくこの状態が続きますことをご理解頂けましたら嬉しく存じます。

( 2022年 6月 24日 記)

 

 

 

 

 

 

『約30年ぶりの宇佐療法との出会い直し』

 

 現在1ヶ月〜2ヶ月毎に開いているオンライン会合、そして2週間おきに行っているアドバイス活動の両方で、私が頻繁に顔を合わせているとある方がいます。この方は現在50代の首都圏在住の男性で、かつて大学を卒業されて就職先での勤務が始まるまでの春休み期間に、約3週間京都の三聖病院に入院されたそうです。

 

 本人談によると、三聖病院を退院した後、治った実感がなく苦しい状態も続いていたので、同じ22歳の頃に生活の発見会に入会して、それから約30年間生活の発見会員であり続け、そして今に至るとのことです。生活の発見会では、症状を強迫性障害・強迫神経症に特化した発見会内の『生泉会』にも何度も参加されてきたそうです。

 

 この方は、不問の会の存在はホームページを介して知られました。不問の会はホームページ上でも、森田療法でもとりわけ不問の森田療法(即ち宇佐療法)のサークルであると明確に謳ってあるのですが、それを承知で私にコンタクトを下さいました。

 この男性からいろいろお話をお伺いしていますと、三聖病院を退院した後、よく分からないこの宇佐療法ではダメだと早々に見切りをつけ、生活の発見会の門を叩かれたようです。

 

「そんなに早くに見切りをつけてしまうなんて、もったいない事をされましたね……(^^;;  しかし、実は私も随分と遠回りしてしまったクチでして (^^;;、初めて触れた宇佐療法にいまいち理解・納得がいかないことは、我が身にも照らしてみてよく分かります……。ですが、実は納得がいかないままに、宇佐先生の言われた通りに『素直に実行する』ことが、結局は森田療法体得の一番の近道なんですよね……」

 出会った当初に、私は男性にこんな言葉もかけました。

 

 

 元来理屈っぽい森田神経質の人の中でも、強迫性障害・強迫神経症の人はとりわけ理屈っぽい傾向があるかもしれないですが(もちろん私も含めての話ですが…(^^;;)この男性もその例に漏れませんでした。

(※仕事上の確認強迫に苦しめられている人でした)

 

 それだけに、頭の中の理屈(症状に関する考え)が解けないままにそれを棚上げして、目の前の仕事に手を出す――。素直にこれを実行してもらえるようになるまで長い時間がかかりましたし、理解・理屈を挟まずに毎日の仕事を続けてもらえるようになるまで、この先もしばらくは時間がかかってしまうのではないか、と実は嘆息していたのですが、最近になって、

 

「頭の中で症状関係の思考をやり繰りしながら仕事をするよりも、確かに不問の森田で仕事をやっていく方が仕事がし易い。苦しみなく仕事が出来ます」との体験談を聞くことが出来まして、嬉しい限りでした。

 

※マンツーマンでのアドバイス活動を始めて、優に1年は経過しています。

※この男性と知り合ってからだと3年以上経っていると思います。

 

 

 ただ、まだまだ自分の強迫症状について、いろいろと頭の中で交通整理してしまう(=考察・判断・分析する)癖がありますので、「交通整理なしですよ! 自分・心・症状に対する分別・理解・把握自体が●●さんを苦しめている根本原因なんですよ」とお伝えさせて頂いております。

 

※このように「理屈を考えるよりもそれを棚上げして目の前の仕事を! 理論よりも実践を!」といった体でお話をさせて頂いておりますと、まるで「気合いで風邪を治せ!」といったような根性論か!? と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、決してそうではないんです。精神内界(=心の中の世界)は、理屈が通用する外の世界とは全く論理が異なるため、分かること・理解から全く離れたところに実は全治があるんです。

 

(※理解出来ている森田療法・森田理論を否定する必要はありませんから、それはそれとして「記憶の別棚」に収納しておいて、持ち出さなければそれでよいですよね――。

(2022年 2月 25日 記)

 

 (※ご注意 今回の記事ではこのような内容になっていますが、生活の発見会という団体の存在自体を否定する意図は毛頭ございません。立場を異にする面は確かにございますが、発見会という森田療法についての全国組織があるということは、以前からとても素晴らしいことだと感じてきました。現に、不問の会の参加者の皆さんの中には、現&元・発見会員でおられる方が何人もいらっしゃいます。)――( 2022年 3月 14日 追記)

 

 

 

 

 

 

『中村敬先生の素晴らしい森田正馬賞受賞記念講演を拝聴致しました』

 

 私はつい先日、一般視聴者として11月20日に行われた森田療法学会の模様のオンデマンド配信を視聴させて頂きました。その中で中村敬先生の森田正馬賞受賞記念講演がとても素晴らしく特に印象に残りました。森田正馬賞のご受賞おめでとうございます。

 

 精神科医や臨床心理士の専門家であったとしても、誤解されたり、無下に否定されたりしがちな面も多分にあるだろうと推察してきた宇佐先生の不問の森田療法について、極めて深い理解の元に共感・重要性をも説いて下さいました。不問の会を主催している身として大変感謝致しております。

 

 今後とも書かれたもの等を通して森田療法の全体像・取り巻く環境等、中村敬先生からいろんなご教示・勉強をさせて頂けたらありがたく存じます。ここのコラムに書き記しても中村先生に謝意が届くことはないでしょうが、不問の会のホームページ上に残しておきたいと思いました。

( 2021年 11月 28日 記)

 

 

 

 

 

『前回の記事の補足です』

 

 前回の記事の補足になりますが、分かったら、その分かったことからもまた離れて、目の前の作業に従事するだけなんです。分かったことを掴んでいると、またその理解を根や茎にしてだんだんと捕らわれてしまいますので……。(^^;)

 結局のところ、自分については(自分の心のことについては)、分かることはどこまで行っても、「重要ではなかった」ということなんです。徹底して知らなくて良かったことなんですね。

 皆さんのその優秀な頭脳・知能は、いくらでも自分の心以外の事柄に使って頂けたら、それで満点なわけなんです。

( 2021年 9月 27日 記)

 

 

 

 

 

『森田療法の実行は、安全な橋を築いてからその上を歩くようには出来ない』

 

 宇佐先生がしょっちゅう言われている、非常に重要な事実があります。それは「森田療法は分かってから、治ることは出来ない」ということです。

 つまり、森田療法は必ず「常に体得が先、理解はそのあと」なんです。

 

 不問の会の会合で以前、この事実を私個人の表現で見出しのように、

 

『森田療法の実行・実践は、安全な橋を築いてから、その上を歩くことは出来ない。つまり、治る理屈を理解・納得・確認をしてから、「よし大丈夫だ、この森田療法で今から治ってみせる!」という風にして治ることは出来ないんです。』

 

 という風にお話しさせて頂いたことがあります。

 

 森田療法の真の実行・実践とは、何か心にトラブルが起こるたびに森田療法を持ち出して、納得してから・確認してから行うものではなく、その時の状態のまんまに、何も手を加えようとせず、素っ裸なままに放置する。言葉・考えを使って概念化しない。確認もしない。

 

 

 浄土真宗の言葉で言うなら、(自分で自分を救おうと頑張らずに、)今の素っ裸の自分のまんまに、自分を阿弥陀様に任せるだけ・委ねるだけ・預けるだけ、なんです。

 

 浄土真宗の他力本願・絶対他力とは、妙好人の例を出すまでもなく、まさに『自分で自分を救おうとしないままに救われる(この身このまま救われる)』という、森田療法の真髄と完全に一致する人類の叡智であります――。

 

 まさかと思われるのも無理はないですが、浄土真宗の真髄は、現代の心理学よりも人間の心の真理を全て、きっちりと看破しています。

 

 確かに「今の自分を素っ裸のまんま放置する」というのは、とても怖いんです。しかしその怖さこそが本物の証拠でもあり、浄土真宗の世界で言うなら、怖いままに二河白道を渡っている証しである、とも言えます。

 

 迷うことなき人類最高の叡智(思慮分別の普通の知恵を超えた知恵)たる禅、浄土真宗、そして本物の森田療法――。この3つの共通点等について、私はまた他日に触れてみたいと思っております。

 

 歴史に思いを馳せてみれば、森田正馬先生も言明されておられる通り、「お釈迦様は森田神経質の大先輩」であります。そしてそのお釈迦様が真に救われて、安心立命を得た。その道(=真実をさす指)がまさに仏教であるわけですから、決して紛い物ではない正道たる禅、そして浄土真宗の真髄が、森田療法の真髄と完全に一致しているということは、森田療法をひいきにしている身からすれば、これは真に光栄の極みであります。そして、それは偶然ではなく必然であるように、私には感じられます。

(※補足するなら、日本の親鸞もまた森田神経質の大先輩であります。)

 

 また、この3つが示すところが完全に一致しているということは、それぞれがそれぞれのことを「本物である」と証明し合っている、という風にも私は感じます。 

  

※ もしも森田療法が正道であるのならば、「悩みの王様・苦悩の王様だった」とも言える釈迦や親鸞ら偉大な先達が、真に救われたとされる道と通じていなければ嘘でしょう。

 

 

 心の外の事柄(例えば仕事や日常生活上のことや学問など)について言えば、「まずは理解し、その理解を生かして、その後に行動・習得」という普通の至極真っ当なやり方はまさに正しいわけで、我々が子供の頃から学んできた合理的な判断・やり方なのですが、殊に森田療法の実行・実践するにあたっては、この当たり前の常識が逆に悩める人を神経症の解決から遠ざけてしまっているという皮肉があります。

 

 不問の会でも、現代人の宿痾とも言うべき、この「分かること・理解することが一番大事」という所から離れきらない方がいらっしゃるので、「後でナンボでも分かりますわ。別に難しいことではないので、分かりたくなくても分かってしまいますわ」と、事ある毎に言っております。

 

 森田療法の真の実行・実践とは、言わば武器がないままに、「これで本当に大丈夫なのか?」という不安を抱えたまま、橋を渡っていくが如しです。

 

 森田療法を真に体験・体得された後になってから、宇佐先生がよく言われる「森田療法の実行に、今までさんざん蓄えてきた森田療法の知識や理解、経験は全く役に立たない」という事実も「なるほど。確かにそうだ」と分かります。

 

※ 宇佐晋一先生が、森田療法の極意とは、長野県の善光寺の戒壇巡り(=本当に真っ暗闇で、一寸先も見えない所を、手探り足探りで進んでいく)であると、ご尊父・玄雄先生がお話しされていたと、院長講話でよくご紹介されていました。

( 2021年 8月 31日 記)

 

 

 

 

 

 

『ありがたいことに地道な成果を上げつつある不問の会の活動2』

 

 私は、不問の会の参加者の方々とは LINE のクローズドのグループチャット(現在の参加人数は14名)の機能を使って、そこで皆さんと交流しています。

 そこではいろんな話が飛び交っているのですが、「不問の森田療法はこれで合っているのでしょうか?」とか「私が襲われる不安が、間違い恐怖(強迫観念の症状)に起因する不安なのか、本当に対処しないといけない不安なのか、区別がつかなくて困っている」等々、本当にいろいろな質問を頻繁にされます。試行錯誤・一進一退されていて返答が必要だと感じられる方に対して余計な所に引っかからないように、私はマンツーマンの形でアドバイスさせて頂いております。

 そんなやり取りの中で、だいぶ変わられたんだなあと嬉しく感じられる内容がつい最近ありましたので、以下にご紹介致します。

 

 

 

■その方の書き込みのコピー&ペーストです■↓

 

―――自分に曖昧でいるって経験は今までありませんでした。

―――気持ちの良し悪しを気にしない、感情はどうでも全く気にしないのは、本当に楽なんですね。だんだんわかって来ました。

 

―――今日はコロナワクチンの接種がありましたが、気持ちはどうでもいいので予期不安は全くありませんでした。

 

―――感情も出ては流れて行って後をひきません。

―――本当に凄いですね。

 

 

 

■これに対しての私の返事は以下です。■↓

 

―――そうなんです。自分については曖昧なままでいることが大切なんです。

―――曖昧でいること=「知らなさ・分からなさ・決められなさ」なんです。

―――言葉を自分に使いだすと、すぐに自分を決める(縛る)ことに直結し、それでしんどくなってしまうんです。

 

 言葉を最初から全く使わないのがベストですが、使ってしまったらそれで終わりではなく、その考えている内容について結論・答えを出す前に(=つまり曖昧なままに=決めないままに)目の前の作業、次の目の前の作業へとという風に、心・考えている自分よりも目の前の仕事を優先させる毎日を送っていれば満点ですよね。

 

 

 

■その方の別の書き込みのコピー&ペーストです■↓

 

―――私は書いてもらってかまいません。

―――この会で不問を教えていただいてから、少しずつ変わって来たんだと思います。

 

―――生活に疲れたといいますか、毎日の生活を維持することがしんどくなっていました。掃除、洗濯、献立を考えて食事を作ること、買い物などなど。

 

―――毎日忙しく、同じことを繰り返し、終わりがありません。

―――何のために生きるのか。虚しい。ともよく思いました。

 

―――どんな感情もただそのままほおっておくようにしてから、いやいやっていたことに割合すっと手を出せるようになったり、ぐずぐずしなくなりました。

 

―――大変だと思いながら家事をしても、終わってしまえば大変さはどこにも残っていません。楽だなと思います。

 

 

 

 

■その方の、また別の書き込みのコピー&ペーストです■↓

 

―――神経症から回復するだけではなく、苦しみの多いこの世を生きて行くのに、不問は大きな力になると感じています。

―――表現力が乏しく、うまい言い方ができないですが(^^;

 

 

 

■また以下のようにも述懐されていましたので、追記致します。[ 2021年 7月 19日 ]

 

―――発見会は理論学習が主でしたが悩みを分かち合い、苦しむ人をたくさん見ました。無駄ではなかったと思います。

 

―――不問は森田の真髄、集大成であり、行きつくところはこれしかないと思って参加させていただきました。

 

※書き込みの引用はここまで。

 

 

 

 私は「曖昧さ」という言い方を不問の会でしたことは一度もないと思うのですが、その方なりの表現で、自分を決めること・自分に言葉を使うことから離れてきている現状を示して頂けたのは、とても嬉しい事でした。まさに、宇佐先生がよく言われる「知らなさ・分からなさ・決められなさ」を表現を変えて言っただけの事です。

 

 そうなんです。自分についてや、自分の心中・症状への理解は、まさに(まさか)曖昧でよかったんです。

 

※ それとは正反対に、目の前の仕事や生活全般については曖昧ではいけない・曖昧ではないほうがよい事が多いでしょう。ここでも心の世界(=精神内界)が、いかに「心は別種の論理が支配する世界である」かが端的に現れていると言えます。

 

 理論森田を手放し、不問森田に入っていくという過程は、こちらとしましては(何回通ったか分からない道なので、)その方の現在位置が手に取るように分かります。

 

 これはまさに当事者同士のやり取りならではのもの、と言えるのかもしれません。

( 2021年 7月 16日 記 )

 

 

 

 

 

 

 

『ありがたいことに地道な成果を上げつつある不問の会の活動』

 

 不問の会の活動は、会合の中で毎日の生活ぶりを互いに発表していくのが基本なのですが、遠方の方とは不問の会の活動とは別に、私が個別に連絡を取っているケースがございます。そしてその方が、理屈を挟まずに次々に行動していく(=作業していく)不問の森田療法をしっかりと体得されて、毎日の生活を送られているんだなあ、と分かるメッセージを今年に入って頂きましたので、以下にご紹介させて頂きます。

 

 

 

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 take さん

メールありがとうございます。

私は機会がなくて五巻を学んだことがなく、森田の深いところを知らないようで何となく引け目を感じていました。

また、難しい文章を読むことに意味があるのかという疑問も持っていました。

不問の会のホームページで、森田理論を学問として学習することは悪いことではないとおっしゃっているのを読ませて頂きました。

なるほど、生活する上では不問の実践が一番大切であって、森田理論や五巻は学問として学ぶなら意味があるのだと納得がいきました。

いつもありがとうございます。

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続いて、以下は同じ方の別のメールです。↓

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 takeさん

学んだ理論を役立てようとするのは、発見会では皆が当たり前にやっていることですよね。

それしかやり方を知らないからですが。

もちろん不問の会で紹介していただいて結構です。

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以下は、不問の会にほぼ毎回参加されている、症状が私と同じ強迫性障害だった方とのやり取りです。↓

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●●さんが知り合った当初から言っている

「いきなり行動、それで満点」

というのがやっと分かるようになってきたよ。

それがどんなに楽かも

※ここで言う「楽」は自分が強迫中に考えていた「楽」とは全然違ってた

 

でもそれって、自分で体験しないと分からないってことも分かってきた。

 

そうだね、●●さんと出会った頃より変わったと自分でも思うよ。

最初から●●さんがよく言う「外のこと」という表現とかには共感を覚えていたけど、

やっぱり当時はまだ「頭で理解してからやる」

「~すれば」っていうアティチュードだったと思う。

いつ頃からだろうな…?

自分でもよく分からないけど

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(2021年 4月 20日 記)

 

 

 

 

 

 

『宇佐先生の公案についての私の回答』

 

 臨済禅の世界において、雲水さんの修行の過程で老師から出される問いを「公案」と呼び、中国・唐代の『南泉斬猫』、本邦では白隠慧鶴(はくいん えかく)禅師の『隻手の声を聞け』などが有名です。つい先日生活の発見会を通じて知り合えた四国の方に、三省会報で宇佐先生から公案が出されているのですが、take さんならどのように回答しますか? と問われました。

 

 最新の三省会報(第144号)に載っていた宇佐先生の文章と全く同じものが、三省会のホームページの講話(2021年3月14日公開分)として載っていましたので、以下に掲載します。

 

※なお、宇佐先生の音声講話や書かれた文章は自由に使っても良い、との宇佐先生の許可は、書面で得てあります。

↓↓↓↓

 

『宇佐晋一先生 講話』

 

■さあどうするか 

 

 世界で新型コロナウイルス感染症の人が1億1.000万人を超えたと報ぜられる中、皮肉にもどうしたら不安をなくすことができるか、という心の問題がとり上げられなくなってしまったのは、唯一結構なことである。

 そういう時にふだん気にも留めなかった、自分をもっと成長させたいという思いがわいてくればさらに願ってもないことだ。

 

 そもそも心の持ち方などと言って、心のやりくりで自分の問題がどうにでもなるように思っていたのが間違いであったのだが、なかなか気づいてもらえなかった。

 そのようなことよりも、どのようなことにもとらわれずにさっさと必要な仕事に手を出して進むことが、今の大変な時代には特に必要である。

 

 そのために自分をもっと成長させたいと考える人びとは、世のなかには発達心理学というものがあるではないか、それを学べばよいだろうと考える。それでも不十分ならば、さらに教育心理学を勉強すればいいのではないかと考えるであろう。

 

 ところが心の問題の解決は学問の世界ではできないのである。

 なぜならば自己意識の世界、すなわち「これが自分だ」と思い込み描いた自己像の世界は、言葉や考えによって組み立てたものである。しかし、心は瞬時も定まった姿を保ちえず、どのような固い決心も外界の刺激の変化によってゆらぎかねないのである。

 しかも学問の様な他者意識の世界と違って、自己意識の中は論理が異なる領域なので、それなりの対応が必要であったのだ。この点がほとんど無視された精神論は実際には役立たない。

 人間の知性が最も役立ってほしいはずの自分自身に対して無力であるということは信じたくないけれども、絶対に見落としてはならない厳然たる事実である。

 私は精神医学を学んだが、この重要なことがらは学ばなかった。

 

 昭和31年(1956)から父に代わって美濃加茂市正眼短大で教育心理学の講義をするようになってから、心理学を通じて学んだのである。

 人間の知性は外部機構であって、外界すなわち他者意識の世界にのみ力を発揮するものなのである。

 これに基づいて、コミュニケーション理論による教育心理学に矛盾を感じ、先生と生徒の一方にどうしても自己像を描かざるを得ないその間柄が是正されなければならない必要さを知り、コミュニケーションのない所に実際生活を通じた真の教育があることに気付いて、講義内容を改めたのである。

 

 当時は新幹線もなく、交通の不便な山奥に学校があったので、4日間泊まりこんで集中講義を行なったが、このことが幸運であった。

 それは短大に近い正眼寺の望雲亭という客室に泊まり、僧堂の雲水の人たちと生活をともにした。しかも毎日梶浦逸外老師に接して、その気魄のこもった雲水に対する指導ぶりをつぶさに拝見し、老師の提唱すなわち講座を聞かせていただいた。

 

 接心すなわち個別の入室(にっしつ)参禅の様子は、老師の隠寮が望雲亭に近い高い所にあったので、大きな声で叱られているのが手にとるように聞こえた。

 これは普通のコミュニケーションによる教育ではない。言葉によって意思を通ずることのない教育であった。

 

 つまり言葉による説明的な回答は老師から叱られるほかなかったのである。

 それは論理的な回答であると叱声が飛ぶと同時にドーナッツ形の環鈴が鳴らされ、それを合図に雲水は引き下がらざるを得ない決まりになっていた。

 

 何か良い答が見つからないから叱られるのではなくて、問と答という形に持っていこうとしているから「何をぼやぼやしとるか」と闇をつんざくような大声で怒られて、

すごすごと引き下がらざるを得ないのである。

 

 心すなわち自己意識については論外であるという、分からない、決められない世界の話をしてきたが、これはまぎれもない真実に生きる大道である。

 問えば直ちにその自分の言葉に引っかかり、答えればまた矛盾に終わる。

「富士山に縄をかけて引っぱって来い」と今まさに言われている。さあどうするか。

 

   2021.3.14 

 

 

 

 その四国の友人は結びのこの公案に対して、「私は何も言わずに首を横に振るという風に宇佐先生にお手紙で回答したのだけれど、 take さんならどうしますか?」と問われました。

 それに対して、私は即座に以下のように答えます、と回答しました。

 

 「伊吹山の標高ってどれくらいでしたっけ?」

 

(2021年 3月 15日 記)

 

 

 

 

 

 

『三聖病院 宇佐療法という宇宙 ~無料予告編~』

 

 you tube で無料で観られる 『三聖病院 宇佐療法という宇宙』 の予告編の冒頭で宇佐先生は、

 

「症状をあるがままに受け入れて~、っていう事は、本当は全くいらない話なんですね。理論学習という事が広く行われていますけど、そういうもんではない。ですから、理論で治すのではないという事を強調しているようなところがあります。――」

 

 と、宇佐療法の特色を、端的かつ見事に話されていますね。(^^♪

 

(2021年 2月 2日 記)

 

 

 

 

 

 

『森田療法における最大の功労者とは誰か?』

  

 それは森田正馬先生であることに論を待たない。言わずもがなの事でありますが、私 take は、このホームページに於いてやたら「宇佐先生、宇佐先生」と言っているので、もしかして宇佐晋一先生と思っているのでは?と考えられる向きがあるかもしれません。ですが、そんなことはないです。

 森田正馬先生という偉大な医学者なくして、そもそも森田療法はあり得ません。

 

 もとより、宇佐玄雄博士(晋一先生のご尊父)は、講話でよく「森田先生は偉いですよ~。森田先生には敵いません」と話されていたと、宇佐晋一博士が講話内でよく紹介されていました。宇佐玄雄・晋一親子の森田正馬博士への尊崇の念は大変なものがあります。

 

 森田療法の世界における宇佐晋一・玄雄両博士の果たされた役割とは、「森田先生が創始した森田療法を、実際に医者が施す上で、或いは、森田神経質の当事者が森田療法を自ら実践する上で、気づきにくい陥穽(間違いやすい点・注意が必要な点)をきっちり見抜いて、徹頭徹尾注意を促しつづけ、森田療法を完全なものへと補強されたこと。昇華されたこと。」という風に私は理解しています。

 

 それがまさに「不問(=理屈抜き=脱論理)」という点であります。

 

 自己像を常に意識化・概念化して、鎖(言葉・考え・理論・論理)で繋いで管理・観察している状態と、鎖(言葉・考え・理論・論理)から解き放って管理・観察することをやめた状態とでは、どちらが真のあるがままかは明らかだと思います。

 

 このコロナ禍の下、宇佐先生は三省会の公式ホームページに、定期的に(一月に二度ほど)文章を寄稿なさっています。その最新のもの(令和3年1月22日公開)で、宇佐先生は以下のように言われています。

 

↓↓↓↓

 

■『森田療法全治の論理とは』

 

 神経症性障害のみならず、心の問題は森田療法によって跡形なく治る。この優れた全治の特色は、一般の精神療法とは論理が異なるからであって、森田療法でもうっかり普通の論理を持ちこんでいると、治るのに長い時間がかかってしまう。

 

 しかし森田先生はそういうことをおっしゃっていただろうか、と心配される方もいらっしゃるだろう。それは ちゃんと「心ニハ普通論理ニ従ワヌモノアリ」と述べておられる。だから「治らない」といっている人は、それを見逃がしているだけのことなのである。

 普通に病気を治すというあの論理でがんばっているから、いつまでたっても治らないわけなのだ。早く "治す論理" から離れることをおすすめしたい。…………

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 私 take はつい先日、生活の発見会のとある代表幹事の方と電話で、時間をかけてゆっくり話す機会を頂きました。その時に、私は以下のようにお伝えさせて頂きました。

(※その代表幹事の方は、つい最近になって宇佐先生の森田療法に出会えたことを大変良かった、私は今後は不問の森田でやっていく、と仰って頂けましたが、今までずっと森田理論学習を核に据えて集談会を運営してきているので、急な方針転換を図ることが現実的には難しいという話の流れになっての事です。)

 

――『私は、宇佐先生が数年前に大変高額の寄付を発見会にされたと聞き及んでいます。その事からも分かるように、宇佐先生は生活の発見会を決して軽んじておられる訳ではないし、発見会が森田療法についての日本全国的な組織として活動している事を喜ばしいことだと間違いなく思われている、と思います。

 

 また、森田の理論学習することについても、「学習は学習として完結する」なら何の問題もない、という主旨の事を話されていたのを、実際に私はこの耳で聞きました。

 

 つまり「学習は学習として完結させ、個人個人の毎日の生活の上で森田療法を実践するにあたっては、不問(=理屈抜き=脱論理)でやっていく――。学習した内容とは一切関係なく、生活していく――。」

 

 こういう生活スタイルであれば、生活の発見会会員でありながら、宇佐先生の不問の森田療法を体得することが可能ではないでしょうか?』――

 

 

 数年前の三省会で発表された方から配付された資料によると、「宇佐先生は、三聖病院の森田療法を『宇佐療法』と呼ばれることを嫌う――」と書かれていました。

 その理由は、不問を始めたのは自分ではなく、森田先生の時には既にあったのに、自身の名前を冠するのは僭称にあたるから――、との思いがあったからかもしれません。

(※ 注意: 実際の呼称は、どちらでも良いと思っています。(^^♪ )

 

(2021年 1月 29日 記)

 

 

 

 

 

『生活の発見会の代表幹事の方とのご縁』

 

 私 take は、この不問の会のホームページを通じて、とある集談会の代表幹事を務めておられる2人の方とのご縁を頂きました。そしてありがたいことに、今年はそのうちの一つで、1日集談会のゲスト講師として呼んで頂き、宇佐先生の森田療法のご案内・ご紹介をする役目を担わせて頂くことになっております。(あくまでも私はご案内・ご紹介するまでであり、体得はご自身でされます。)

 

※ 本当は去年の予定だったのですが、新型コロナ禍の影響で、その企画は流れてしまいました。

 

 また一昨年は、発見会の中部支部で長年の功労者である方に目をかけて頂いたご縁から、愛知県のとある集談会の1日集談会にゲスト講師として呼んで下さり、お話をする機会を頂いたこともあります。

 このように、生活の発見会の会員の方々とのご縁に恵まれていることに大変感謝しております。

 

 実は不問の会は、私が発見会会員だった当初、発見会内の『テーマ別懇談会』の一つとして発足することを視野に入れ、活動を始めました。

 さまざまな事情・理由があり、それは叶わなかったのですが、私が発見会会員の時に知り合えた方々が、ありがたいことに不問の会に足を運んで下さっています。

 

 私は一日集談会などで声をかけて頂いたら、日本全国各地の集談会に馳せ参じて、宇佐先生の森田療法のご案内・ご紹介を懇切丁寧にさせて頂く所存でありますので、もしご用がありましたら、いつでもお問い合わせメールからご連絡下さいませ。(^^♪

(2021年 1月 20日 記)

 

 

 

 

『心というものは、自分の計らいで解決できる世界ではないのです』

 

 上記の言葉は宇佐先生のご著書『あるがままの世界』の158ページから引用させて頂きました。

 また同ページで宇佐先生は『宗教は人生を送る上で、必要不可欠なものである』とも述べられ、「なぜですか?」という元修養生の方の質問に対し、『心の脱知性化がなされるからです』と明快に回答されています。

 

 森田療法の実践も実は全く同じことで、「脱知性化」ができていない状態では、実は本物とは呼べないんです。

 

 本物の森田療法を体得すると、「心の脱知性化が必要である」という宇佐先生の言葉が、自身の体験を通じて「そうそう。確かに」と首肯できるようになります。

 

[※注意] 我々は宗教と聞くと、すぐに〇〇教ということが想起されますが、宇佐先生の言われる宗教とは、真実をきっちり見抜いていて、自分に対して言葉・考え・論理・理論を使わせなくするという優れた智慧を有しているものを指すので、巷間に理解されている〇〇教、〇〇派、〇〇宗等という、いわゆる一般的な概念の宗教の全てがそれに当てはまるとは私は思っておりません。ちなみに、宇佐先生の講話でよく出てくるのは「禅」と「浄土真宗」にまつわるお話です。

 

 

 

■『(頭の中に、心の中に)森田療法(森田理論)が残っているうちは、まだ本物ではない』

■『森田療法は、「症状をあるがままに受け入れて…」ではない』

 

 私も以前は、脱知性化どころか、森田理論を自分に常に当てはめて考えながら、日常生活を送っていました。なので私は、『自分の症状と向き合い、森田理論によって、治癒を目指す森田療法』と『不問の(=脱知性化の)森田療法』の両方の状態を自身の経験を通じて知っています。

 

「不問の(=脱知性化の)森田療法」は、理論森田よりももっとシンプルであり、生活が格段に送りやすくなります。

 

――『自分の心はあるがままだ、森田療法なんだからあるがままでいいんだ……』

――『症状をあるがままに放置していれば、不安・恐怖はおさまっていくんだ。それが「感情の法則」なんだ。だから放っておこう』

 などという風に自分に言い聞かせている状態(=自分自身と問答している状態)と比べると、格段の差があります。

 

 本物の森田療法は、日常生活の中でいろんな神経症症状や不安・恐怖が自分に起きる時はそれが起きるままに、どんな言葉や考え(森田的な言辞や、森田理論、森田先生や宇佐先生が言ったことも含む!)も自分に対して用いずに、『そのまま』を味わうままに、目の前の生活に「すっと」手を出す――。 「いきなり」手を出す――。

 極めてシンプルです。

(2020年8月13日 記)

 

 

 

 

『森田療法では作業「こそ」が妙薬である。作業「だけ」が妙薬である。森田理論や森田的な考え・知識が妙薬になることはない。』

 

 森田神経質(各種神経症に苦しんでおられる)の方なら、自分の頭の中から離れてくれない考え・強迫観念・強迫症状をスッキリしたくて、その相手を頑張ってしているのに&考えをどんどん深めていくのに、全然うまくいかない経験っておありだと思います。

 

 『森田療法では作業こそが大事――。』それは十二分に分かっているのだけれど、症状・強迫観念・さまざまな考えが納豆の糸のように自分にまとわりついて、がんじがらめになってしまって、どうにもならないんだ!と言いたい人も多いと思います。

 

 森田療法は作業療法と言われるように、作業を「いきなり!」始めることが本当に重要だ。「たったそれだけが」本当に重要なのだと分かったのは、私はとても遅かったです。

 「いきなり!」とは、その症状・その考え・その強迫観念が、まだ解決できていないのに――、まだ解決できていないままに――、頭の中がこんがらがって・混沌としてスッキリしないままに――、整理のつかないままに――、です。

 

※その始める作業とは、ご自分の目の前にある生活(仕事や勉強、趣味、掃除や歯磨き、犬の散歩、ちょっとした片づけ、ちょっとした用事 etc.)なら何でも。

 

 以前の私は、強迫観念・強迫症状・考えに自分の生活を完全にからめ取られてしまって、毎日の日常生活をスムーズに送る事がままならず、ただひたすらに強迫観念・強迫症状・頭から離れてくれない様々な考えを相手にして、スッキリしたくて頑張ってしまって、何日も、何か月も、或いは年単位の歳月をも無駄にしてしまった過去があります――。

 

 頭の中がスッキリしないままに、症状や強迫観念の相手をする事をやめて&手放して、目の前の事に手を出す――

 単純だけれども、これの実行がとても苦しい・つらい、というお気持ちは本当に痛いほどよく分かります。何しろ自分が何千回、何万回と通ってきた道なのですから。

 

 想像しているだけだと、それを実行するのは、途方もなく高い壁のように感じられますが、しかし、やってみれば意外に出来ます。誰にでも――。

 私は最初、それがすごくやりづらかったので、京都の三聖病院に入院中、日記で宇佐先生に「私はそれがとてもやりづらいので、その訓練をやっていこうと思います」と書いたところ、「それでよろしい。訓練即全治です。」と朱色で書いて頂けました。

 

※この場合の「即」は、「イコール」の意味です。

 

※【注意】 今回のコラムで言っている内容は、「作業をすれば(→)治る」ではないです。「作業をしていること自体が(=)治りである」という事です。

(2020年5月15日 記)

 

 

 

 

『森田療法(森田理論)を使って自分の症状を治そうとして、失敗する』

 

 現在、森田療法に取り組んでおられる殆どの神経症者の方達と同様に、(20代、30代半ばまでの)私が長年犯していた過ちが、まさにこれでした。

 当時の私は、それで森田療法をしっかり実行しているつもりでいたのですが、

「それでは実は間違いですよ! 森田療法をやっているうちに入りませんよ!」ときっちり指摘しているのが、宇佐先生の不問の森田療法でした。

 

 森田療法では、自分の心の問題(自分の神経症症状や不安や恐怖、コンプレックス等)について、今このままではない、症状や不安のない状態を目指している内はダメだったんです。それでは森田療法をやっている、とは決して言えないのでした。

 

――『森田療法は、心に目指すものがあっては失敗する』のでした。

(※注意:それとは対極的に、目の前の自身の生活では、仕事・勉強・趣味・日常生活等に「目指すもの・理想・目標」があって良いのです)

 

 もっとも、自分(の心)について、言葉・論理・考えを一切使っていない時は、目指すもの(例えば症状のない自分)をそもそも思い描けない為、全治の道があるのみです。

 「考えたあるがまま」ではない、森田の究極のあるがままですよね。

(2020年3月1日 記)

 

 

 

 

『生活の発見会・とある代表幹事の方からのメール』

 

 昨年の秋口に、不問の森田療法に興味を持って頂いた、生活の発見会のとある集談会の代表幹事を長年務められておられる方と連絡先を交換しました。

 その後、お互いの都合のつく時に、電話で2時間ほどかけて「森田理論を使って自分の症状を治そうとする森田療法」と「不問の森田療法」の違いについて、ゆっくり・じっくりとお話しさせて頂きました。

 

 その方は硬直した思考姿勢をされない、自分に間違いがあったと悟れば素直に改める柔軟性を持っている性質・性格の方であったこともあり、不問の森田療法こそが本物の森田療法であることを、本当によくよく理解して下さいました。

 そして数日を経て、ありがたいことに以下のメールを頂きました。

 ここにその文面を掲載してもいいとのお許しを得ましたので、原文のままに、以下に(抜粋) 掲載させて頂きます。

 

 

――『take さん。今日は貴重なお時間を使って、お話を聞かせて頂いてありがとうございました。take さんのお話はとても分かりやすかったです。宇佐先生がどのような指導をされるのかは想像してはいましたが、やはり実際にお話を聞かないと分からないことでした。早速これから実践します。

 宇佐先生はご高齢ですから、これから不問の教えを守り広めていく活動が広がるようにお祈りしています。』

 

――『take さん、ホームページのご案内ありがとうございます。

 お蔭様で、take さんからお電話を頂いてから後、あれこれと悩まずに行動出来るようになり、心が自由になったようにも感じております。

 集談会の先輩から、宇佐先生の本を3冊借りることが出来て読んでいるところですが、知れば知るほど宇佐先生の森田療法の素晴らしさを感じています。』

 

――『生活の発見会の普通の会員は、理論で頭がいっぱいになっています。来年の1日学習会が、森田療法の一番大切なところを知る機会になればいいと思います。』

(2020年3月1日 記)

 

 

 

 

『理論森田から不問森田へ』

 

 以下は、ある方のブログに、当会のこのホームページの内容に関して、私がレスをさせて頂いた内容を一部加筆・訂正したものです。ご紹介させて下さい。

 

 

 不問の会の者です。

 まさにおっしゃる通り、宇佐先生の森田療法は「思想」ではないのですが、不問の会のホームページでは敢えて「教え」という言葉を使っている時がございます。

 また、不問の会のホームページではかなり説明的になってしまっていて、私自身それがまずいなとは承知しているものの、現代人の宿痾として(私もまさにそうだったのですが)どうしても「最初は」理屈・論理である程度の歩み寄りをしなければ、まず宇佐先生の森田療法に振り向いてすらもらえないという残念な現状がありまして、やむなく説明的になっている次第です。

 

 もちろん宇佐先生の森田療法の眼目を頭で理解しているだけでは全くダメで、理屈抜きの生活を実行してもらわないといけません。

 不問の会には、現役の生活の発見会会員の方も毎回4~6名ご参加頂いておりますし、また、遠方にお住まいの方で京都まで簡単には来られない場合等には、個人的に十分に時間を取ってお電話で丁寧に、宇佐先生の森田療法のご紹介・アドバイスなども責任を持って対応させて頂いております。

 例えば、その電話やメールで交流させて頂いている生活の発見会のとある集談会の代表幹事の方は、実際に「理論森田」から離れ、「不問森田への大転換」を立派に果たされました。(^-^) そして、毎日の生活が以前よりも送りやすくなったという感謝のメールも頂きました。

(2020年1月9日 記)

 

 

 

 

『森田療法のあるがままとは、言葉で表現する以前のも。「症状をあるがままに受け入れて…」と自分に呼びかける以前のもの』 ※物ではありませんが。

 

 森田療法でよく言われる『あるがまま』とは、実は言葉・考えを使って、本人が「森田療法は、あるがままだよね。(症状や気になる事などを)あるがままに放っておこう…」と自分に呼びかける以前のもの、そのように知覚する・考える以前の自分(の状態)なんです。

 

 宇佐晋一先生が講話で「あるがままは言葉のないもの。/言葉でないもの。」と、しょっちゅう言われる所以です。

 

 仏教の「色即是空・空即是色」とは、完全に言葉・考えを離れきったこの世の真理であるのと全く同様です。

 「この世は、色即是空だなあ。空即是色だなあ」と言葉で理解しているのは、「考えた色即是空・空即是色」であって、それは本物ではありません。

 森田療法も同じく、「考えたあるがまま」に留まっていてはいけない、とも言えますよね。

(2019年12月24日 記)

 

 

 

 

『最後には理屈を離れなあかん(のは分かってる)』

 

 私は不問の会代表、兼、生活の発見会会員、兼、三省会(三聖病院の元修養生を中心とした組織)の会員です。生活の発見会の大阪府下のとある集談会には、私も時々参加させて頂いております。

 

※[注意] 私は現在では、生活の発見会は退会しております。(2020年6月 記)

 

 

 上記の言葉は、私が2019年12月に参加したその集談会の忘年会で、宇佐先生の森田療法の特徴について、私が紹介させて頂いていた時に複数の発見会会員の方から「そうですよね、分かります」と、うなずくように言われた言葉です。まさに「我が意を得たり」とばかりに、私は嬉しくなりました。

 

 発見会の先輩方のこの発言には、長年神経症に苦しみぬき、長年森田療法に触れてきて、試行錯誤を繰り返してきた経験をお持ちの方々ならではの「言葉の重み」があります。

 長年神経症に苦しみぬき、長年森田療法を試行錯誤してきたのは、実は私も全く同様でして、私などは宇佐晋一先生に若い頃に巡り合えたという幸運に恵まれながらも、宇佐先生の不問(=理屈抜き=脱論理)の森田療法を素直に実行できなかったために、随分と遠回りをしました。それこそ、「お隣にお醤油を借りに行くのに、地球一周するくらいの無駄な遠回り」をしてしまいました。

 

 もちろん、この遠回りは全く必要なことではなく、「最後には~」ではなく「最初から理屈を離れて」いたら、実はもっと良かったのでした。(#^^#)

(2019年12月19日 記)

 

 

 

 

『中村哲医師と森田療法』

 

 中村哲医師がアフガニスタンの地で凶弾に倒れたというニュースは、私に衝撃を与えた。

 マルワリード(=ペルシャ語で"真珠")用水路を引き、砂漠の大地を緑地化させたという顕著な功績で知られる中村哲先生の行動力に、以前から畏敬の念を持っていた私は『医者、用水路を拓く』などの本を読んだことがありました。

 

 73歳の身なれど、あと二十年は彼の地で活動を続けたいと思っておられたようでした。私などは、その旺盛な社会貢献の意欲に励まされます。

 非常に残念な最期でなりませんが、中村哲先生の功績は、今後日本・アフガニスタンで消えることなく伝えられていくことでしょう。

 

 中村哲先生のご著書を読んでいて、「おや?」と思ったことを、ここにご紹介致します。

 中村哲先生は、学生時代に異性恐怖にかなり悩まれていたことがあったようで、その時に森田療法を知られたようです。ご著書でそのことに少し触れられていました。

 その後、森田療法の本道を行くように、注意・関心が(自分の内ではなく)外に向いたことが奏功したようで、以降、自然とその悩みから離れていかれたようです。

 大変お疲れ様でした。ご冥福をお祈り致します。合掌。

(2019年12月7日 記)

 

――( 2021年 11月 29日に以下を追記)

 

 中村哲医師が「柳緑花紅」という言葉を好んだとされることや、アフガニスタンでの活動を追ったテレビ番組内で、「議論はいらない。ただやるだけだ」と発言されていたのは、もしかしたら森田療法の影響もあるのかもしれない、と私は感じました。

 

 

 

 

 

 

『宇佐君のところの人のほうがよく治ってる』by 森田正馬

 

 不問の会に参加して頂いている女性の方が、ある本で森田正馬先生がこう述べていましたよ、と教えて下さいました。私は現物が確認したくなって、「(森田療法の)どの本に書いてありましたか?」とお訊きしたのですが、ちょっと覚えていないとのことで、まだ未確認ですが、どこかの本に確かにそう書いてあったそうです。

 森田先生がどこまで本気でそう仰ったのか分かりませんし、会話の弾みでそうした呟きがふと出た程度のことであろうと私は想像しています。(だから、何がどうした、という事はないのですが)

 

 ただ、森田正馬先生が、宇佐玄雄博士(宇佐晋一博士のご尊父)の森田療法の指導法を高く評価していたのだろう、と私は感じました。

 三聖病院の男性修養生(入院患者のことをそう呼ぶ)の各部屋の棟には、森田先生が三聖病院に来訪された時に宿泊される特別室というのがありました。特別室にだけは床の間があり、私が入院していた平成の時代にも特別室はそのまま残っていて、特別室の月額利用料は、他の一般の部屋よりも高かったのを私は覚えています。

(2019年11月30日 記)

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